『徒然草』
今年から、娘の授業に『古典』が加わり『全然解らない!』というので、娘より『もっと、全然解らない!』私が、一緒に見てみようと、いざ、教科書を開くと、、まぁ、相変わらず、何だかよく解らない、上に、現代訳しても、対して、面白くもない、随筆作品の、ごく一部分が、教材になっている。まぁ、教材なので、古文に触れる『導入』が目的で、作品の面白さを伝えるのがメインではないので、仕方がないのだが、、、もう少し、現代訳をした際に、今の子供達が『面白いなぁ』と思える部分を、拾う事は、出来なかったのだろうか、、そうすれば、もう少し『古典』に親しみを覚えるのではないのだろうか、、などと思いつつ、、正直、嫌々、娘と教科書を読み進めていたのだが、、、突然、その中の一文が、私を惹きつけた。
つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。
『徒然草』は、皆様もご存知の通り、吉田兼好が鎌倉時代に書いた随筆なのだが、、、この序章部分が、私を、えらく惹きつけたのだ、何故か?というと、何となく、今の、私の状況に、似ているのだ、、そう思い、教科書の現代訳を見るのだが、、、
特にすることもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、妙におかしな気持ちになる。
という、当たり障りのない訳で、どうにも疑問が残る。243段もの短編を書いた筆者の、序章が、、、こんな普通の現代訳なのだろうか、、もっとウィットに富んだ意味を含んでいたに違いない。教科書的には、上記が正解の様なのだが、、誰が決めたのだろうか?!という訳で、、、ネットで、他者の訳を拾ってみよう、、、、
特にやることもないままに、一日中硯にむかって、心に浮かんでは消えていく何ということも無いことを、なんとなく書き付けると、あやしくも狂おしい感じだ。
ひとり居で手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯を前にして、心に映っては消え、映っては消えるつまらないことを、とりとめもなく書きつけると、妙に気ちがいじみた心地がする。
することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、(思わず熱中して)異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ。
暇に飽かせて一日中、硯(すずり)に向かって、思い浮かぶどうでもいいことをつらつらと書き連ねていると、妙にばかばかしくなってくるものだ。
退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなッ!
とまぁ、、色々な訳があり、、古文に、正解は無く思え、、正しく現代訳するとは、どういう事なのだろうか、、と、大きな疑問が残り、、とりあえず、本屋で、現代訳の『徒然草』を購入し、読んでみようと、大きな書店を3軒周ったのだが、どこも『徒然草』に関する本は、1冊も扱っていない。ネット上では、与謝野晶子さんの訳が、素晴らしいとの事で、、、それも調べたみたが、既に絶版。与謝野晶子さんの全集に含まれる様だが、全集を買う気にはならないし、、雨の中、これ以上歩いて、図書館に行くのも面倒で、、、そもそも、『古典』は授業にあるだけで、専門家以外、ほぼ、誰も興味がない事に気付き、二日目にして、アッサリ諦める事にした。
つまり、特に資料を見つける努力は、実らなかったのだが、、、私も、、惹きつけられたこの一文を、現代訳してみる事にする。まず、他者の訳と大きく違うのは、序章を、一番先に書いたと受け取れる、浅はかな直訳が、多いのだが、これは明らかに、後で、書かれたもので、ある程度、他の段が纏まった上で、序章を書いた!に決まっている。243段を書く前に、書いている時の気持ちなど書くわけがないのである。仮に、書いていたとしても、最後に、文言は修正されたと思われる。そして、まわりくどい、謙遜表現は、彼の独特な湾曲表現であり、それを普通に解釈してはイカン!と思うので、無駄な謙遜は、省いている。
思いつくままに毎日、一日中、硯に向かい、普段、心に浮かんでは、消えていってしまう思いや考えを、特に目標もなく、書き留め続けていると、なんだか変になりそうなのである。
私の、このホームページも、、、正に、、、徒然草。
243話、書いたら人類滅亡の頃の、教科書に出れる!と信じて、頑張ろう!
*因みに、私の現代訳は、娘の試験ではバツになる。全くもって、正解ではないので、あしからず。
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