『正しい判断 』
『正しい判断』とは、どういう判断をいうのだろうか?
事の大小を問わず、多かれ少なかれ、人には、生きる上で、判断を迫られる色々な場面があると思う。試験問題のように、必要最低限の情報が与えられ、問題が記述された場合、どんな人間も、ほぼ同じ判断(解答)をすると思うのだが、、、現実の社会においては、それに関わる十人十色の思考回路が生み出すシガラミの上で、最適な解決方法を判断する事になる、、、というと、、、皆の意見を考える事が大事になると思われがちだが、それは勿論、当たり前なのだが、それだけを優先すると、日本の政治政党の様に、票取りだけになり、中身が空っぽという、基礎的問題が発生する、、指示されたルーチンをこなすフォロー型の人々は、そもそも提議された問題を改善する対策の必要性の度合いよりも、ルーチンとの兼ね合いを優先する意見になる傾向が、当たり前にあるのだ、、つまり抜本的な解決方法を先に、熟考した上で、それに関わる周りの人々の意見・思考を、再度取り入れた上で検討する方が、間違いなくベターな判断になる。私は、常に一度、全てのシガラミを忘れ、リセットした状態で、物事を考えるようにしている。それは正に、先に述べた試験問題と同じで、大抵の人が、同じ判断をする様に、シンプルに正しい方向を判断する事になり、その上で、、シガラミとの落とし込みを考える、、そして、その判断の適切な理由と、それを実行する事によるメリットの説明をするのだが、、大抵の場合、シガラミの兼ね合いで、妥協はつき物になる。そう、、これが、『正しい判断』なのだろうか!?
悲しくも、、、、
事の大小を問わず、多かれ少なかれ、判断を迫られる数だけ、シガラミはある。
皆に愛され、自分を誇れる、正しい判断をしたいものである。
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